この記事では僕の生い立ちから退職までをゆるーく語ります。
秋山ヒロが公立教員になるまで
僕は11年間公立の中学校教員をしていました。
「していました」という言葉通り、現在は退職してしまっています。
公務員辞めるなんて、世間的にはもったいないって言われそうやな。
もちろん僕も、まさか退職するとは思ってませんでしたよ。
なぜこうなったかというと、これまでの「思考停止の人生」が関係しているのです。
1984年、富山県に秋山ヒロは生まれた
どこにあるかわからない県ベスト5に必ず入る富山県に僕は生まれました。
「富山」の名の通り、僕の家の周りは全て山でした。
家の庭にはタヌキ・シカ・イタチはもちろん、熊も出没するほどのド田舎だったんですよね。
そんな何もない山奥で育ったため、コミュニケーションは苦手。いつもゲームや読書ばかりしていたんです。
「公務員は神」の両親
ど田舎あるあるだと思うのですが、両親の価値観は昭和そのもの。
両親はただの会社員だったため、とにかく公務員になることを進めてきたし、僕自身も強い意志があったわけではありませんでした。
「進学校行けま!」「国公立大学しか言ったらあかんぞ」「公務員ならんな!」
こんな言葉をずーっと聞きながら育てられ、コミュ力もない僕だったので自主性は皆無。
気づけば「親のいいなりが一番楽だわ〜」という思考停止状態にどっぷりはまっていたのです。
だって、親の言う通りにしておけば迷う必要もないし、責任も自分で持たずに済むからね。
パソコンが好きだったので最初は工学部を志望していたものの、数学が全く理解できず。
あえなく文転し、安定の地元国立大学に進学したのです。
教育学部に入ったのは「公務員になるため」
親の思いをくんで(本当は自分に意思が無いだけ)、教育学部に入学。
英語科か国語科かを選べたので、適当に国語科を選択。
これも特に理由などなく、「楽そうに見えたから」というのが本当のところ。
楽な方へと逃げに逃げまくった人生なんですよね…。すみません。
秋山は、いつも運がいい
人が決めたレールに乗っかり、疑問もいだかず進んできた人生ですが、人の出会いには恵まれていたと思うんですよね。
国語科教育を教えてくださったゼミの先生は授業実践が山のようにある先生でした。
「実践のない理論なんて、ただの妄想や!」というのが先生の口癖。
実践に生きる学びを教えてくれる先生との出会いは、僕の人生を変えてくれましたね。
教員1年目から運が良かった
教員になった1年目、学年主任や先輩方にも恵まれました。
年間通してさまざまなトラブルが続出した我がクラスでしたが、常に「何がまずかったか」「これからどう動けば改善できるか」を教えてくれたんですよね。
もし「使えないやつだ」「どうしてこんな指導すらできないんだ」と言われていたら、僕のよわよわメンタルは崩壊していたはず。
大事なのは「What(事実)」と「How(これからどうするか)」ですよね。
根気強くWhatとHowを指導しつづけてくれた先輩には感謝しかありません。
2校目も運が良かった
初任校を経て異動した2校目。実は地域でも有名な教育困難校でした。
しかも1校目は県内トップクラスの落ち着き&成績優秀さを誇る学校だったので、あまりのギャップに泣きそうでした。
- 部活動とは名ばかり、チンピラ集会と化したテニス部を持たされる
- 強く指導したら保護者からクレーム
- 授業中にロッカー上で爆睡する男子生徒
- 下ネタしか聞こえない休み時間
- 洗面所にうんこ
勤務開始の0.5ヶ月で経験したことです。
でもあれは確かに人糞でした…太さ的に。
いよいよ僕の運の良さも尽きた…そう思いました。しかし、ここでも人に恵まれたんです。
「厳しい優しさ」を教えてくれた学年主任
2校目に出会った学年主任はむちゃくちゃ怖い先生。生徒だけでなく、先生からも恐れられる存在でした。
でも、その先生がキレるのは「間違ったことをしたとき」だけ。
決して感情や自分の都合でキレることはありませんでした。
だから管理職にも「それは筋が通ってない!」と容赦なくキレていましたね。
見抜ける生徒は、その先生が「優しい」と言ってましたね。
思えば、「おかしいことはおかしい」というマインドを僕にインストールしてくれたのは、このときの主任でした。
秋山ヒロ、労働組合で「おかしさ」に気づく
2校目での勤務も数年が経過し、お世話になった主任も異動していなくなっていました。
そんなとき、僕の学校に回ってきたのが「労働組合の幹部」の役。
基本的に誰もやりたくはないので、持ち回りで担当が決められていたんです。
まあ、ただでさえ忙しいのに、組合の仕事までやってられんわな。
そうなんです。
でも、くじ引きの結果、見事に役を引き当ててしまったんですよね…。やっぱり運がいい…。
教員の「おかしな」未来が見えてきた
労働組合は、先生たちが働きやすいような環境を整えることが役目です。
たとえば「給料をあげろ!」と委員会に物申したり、「有給を増やせ!」と要求したりするわけです。
僕も東京の人事院前に行き、待遇改善を訴える活動に参加したりもしました。
しかし、そこで見えたのは「緩やかに悪化していく労働環境」でした。
おいおい、労働組合の役をしておきながら、逆になっとるやんけ。
そうなんです。今までぼんやり理解していたことが、組合の「中の人」になることでわかってしまったんです。
どれだけ訴えても「仕事は増えて給料は減る」という、この現実が。
もちろん今でも労働組合で尽力してくださっている先生には頭が下がります。しかし、僕には明るい未来が見えなかったんです。
環境は変わらない。だから、自分が変わる。
秋山ヒロ35歳。このとき初めて「この業界にいたらまずい」と思ったわけです。
あと30年間あるんだから、待っていたら改善するんじゃないの?
もちろんそん可能性はありますね。
でも、55歳のときに改善されても遅い。そう考えたんです。
変えるなら『人生で一番若い日」だと。
2019年8月、僕はそう考えて退職をすることに決めました。
2021年、後悔はない。
結局僕は2020年3月に11年間勤めた公立中教員を退職。
2020年4月から私立高校に転職しました。
転職して1年が経ったわけやけど、ぶっちゃけ後悔してないん?
1ミクロンも後悔してないですね。
ほぼ毎日定時退勤できていますし、教育委員会のための書類作成も無くなりました。
おかげでYouTubeやせどり、ブログと色々なことにチャレンジできましたから。
“先生”を使わず、生きていく
これから僕が目指しているのは「先生という肩書きを使わず生きていく力」をつけること。
教員は、学校という箱が用意されてないと働けないのです。
ということは、箱を用意してくれる学校法人や教育委員会の言うことを聞かなければならないわけで。
確かに、コロナ禍で仕事は増えたのにボーナス(期末手当)は0.15ヶ月カットになったらしいな。
トップに文句を言うのは楽だけれど、たぶん何も変わりはしないんですよね。
だったら、自分で稼いで生きていく力をつけるほうが大切だと考えたんです。
今の時代、稼ぐ方法はいくらでも無料で手に入るからな。チャレンジせな損だわな。
秋山ヒロは、教員から卒業する
ということで、僕はいま2023年の独立に向けてチャレンジを続けています。
教員という仕事は嫌いではないんです。
ただ、あまりに働く環境が悪すぎるんですよね…。
どうしても教員をやりたくなったら、また戻ればいい。今はそう考えています。
正直、うまくいくかは分かりません。失敗したら「やっぱりな」と笑ってやってください。
そしてもし…もし一緒に歩んでくださる方、仲間になってあげてもいいよ、という方がいたなら…一緒に教員から卒業しましょう。
取材歴
ゆるっとポケット転職学校
公立小学校教員から転職された「まっち」さんのサイトにて。
僕の転職経験を記事にしていただきました!
Webライターの実績
記名記事のみ掲載します。